研究成果を現場の利益に(獣医学類 獣医衛生学ユニット 樋口豪紀教授・権平智講師)

 獣医学類獣医衛生学ユニット(樋口豪紀教授・権平智講師)では、酪農家を悩ませる乳房炎、マイコプラズマ感染症の予防、検出、治療、対応策などを研究している。乳房炎については、乳に含まれるアミノ酸のバランスに着目し、原因菌による免疫反応との関わりを調べている。マイコプラズマ感染症については、検査体系を確立するとともに、発症のメカニズムの解明に取り組み、将来の予防薬、治療薬の開発につなげたい考えだ。

樋口豪紀教授(左)と権平智講師

 哺乳類の母親は通常、自分の子どもに与える分の乳しか出さない。ところが現代の乳牛は、それを大幅に上回る年間1万㎏もの乳を出す。樋口教授は、
 「乳牛の乳房はガラス細工並みの繊細さを持っています。牛の体調が悪くなると、最初に乳房に影響が出ます」
 という。乳牛の乳房の病気は、酪農業の収入源である生乳の乳量・乳質に影響し、時に酪農経営を脅かす。乳房炎もそうした病気の一つだ。
 「乳房炎の正体はほぼ明らかになっています。大腸菌や黄色ブドウ球菌などが乳頭から侵入し、乳腺に炎症を起こす。それを防ぐには、搾乳衛生が重要です。しかし、それでもなお乳房炎は発生する。したがって、その先を見据えた研究アプローチが必要です」(権平講師)
 そこで、権平講師が着目したのが、アミノ酸と免疫応答だ。酪農学園フィールド教育研究センターで飼育している乳牛から採乳し、健康な牛と乳房炎にかかってしまった牛の乳汁に含まれるアミノ酸を測定し、比較する。その結果、乳房炎の牛ではアミノ酸のバランスが変化していることが解ってきた。
 乳房炎にかかると乳房に血液から白血球が導入され、病原体を撃退する。別の研究から、アミノ酸が白血球の働きを増強するのではないか、ということが明らかになりつつあり、牛の乳房炎の場合にどのアミノ酸が白血球を活性化させるか、アミノ酸と白血球の相互作用を調べている。
 具体的には、牛の血液から白血球を取り出し、特定のアミノ酸をふりかけ、そこに乳房炎の原因菌を添加する。アミノ酸がある場合とない場合、あるいはアミノ酸の種類を変えて、どのアミノ酸が免疫応答に関わっているのかを調べる。
 白血球を活性化させるアミノ酸を特定できれば、乳汁にそのアミノ酸を多く含む牛が抵抗力の強い個体だということがわかる。乳汁に含まれるアミノ酸が乳房炎に対する抵抗力の指標になり得るのだ。
 「アミノ酸のバランスを餌によりコントロールできれば、乳房炎に強い乳牛を育てることができるようになります。また、アミノ酸のバランスにより乳房炎にかかりにくい牛の遺伝形質を調べることにより、育種改良につなげることができるかもしれません」
 と権平講師は述べている。
 一方、牛のマイコプラズマ感染症は1980年代に日本で初めて報告された。ヒトのマイコプラズマ感染症は、マイコプラズマ肺炎として知られており、薬で完治するためさほど大きな問題にはならなかったが、牛のマイコプラズマ感染症は呼吸器だけでなく、乳房炎や関節炎、中耳炎などを引き起こし、極めて治りにくい難治性の病気だ。マイコプラズマ乳房炎にかかると、泌乳が止まり、回復しない。2000年代前半までは国内の発生率は低かったが、2008年から北海道を中心に爆発的に増えた。数百頭規模の農場で半数が感染し、経営破綻した農場が相次いだ。
 牛に感染するマイコプラズマ属菌は10種類ほど知られているが、中でも病原性が高いのがマイコプラズマ・ボビスで、これが牛の主要菌種だ。通常、菌を培地に置けば1日でコロニーができてすぐに検出できるが、マイコプラズマは検出に1カ月ほどかかる。一方、感染力が強く、1日で農場内に蔓延してしまう。ある日突然、泌乳がストップしてしまう。検査に1カ月もかけていては、現場はまったく対応できないことになる。

マイコプラズマ

 そこで同研究室では、遺伝子検査(PCR検査)による検出方法を新たに開発、2009年には検査体系を確立した。また、十勝農協連らと協力して、バルク・タンク・スクリーニング(BTS)を実施。マイコプラズマに感染した牛がいる農場を洗い出し、PCR検査により感染牛を特定し、隔離することで蔓延を防ぐことができる。今ではBTSによりマイコプラズマが検出された場合のプロトコル(手順)がマニュアル化されており、アウトブレイク(大流行)の可能性はほとんどなくなったという。事実、2011年以降、道内で大流行は発生していない。ただ、感染頭数は激減したものの、農場数ベースの陽性率はほとんど変化していない。樋口教授は、
 「子どものころに肺炎にかかると、マイコプラズマを持ち続けたまま成牛になり、血液を通じて乳房に菌が移り、発症します。通常の乳房炎は外部から病原体が入ってきますが、マイコプラズマは肺からやって来る。自身の身体内で感染するのはマイコプラズマだけです。農場内の最初の1頭は、そうやって発症し、それが起点となってほかの牛に感染するパターンが多い」
 という。したがって、潜在的な危機は去っておらず、対応を誤ると再び大流行する可能性は否定できない。
 同研究室では、今、難治性のマイコプラズマ感染症に対する予防薬や治療薬の開発を目指し、その感染や発症のメカニズムの解明に取り組んでいる。
 「実はマイコプラズマ感染症については、情報がほとんど整理されておらず、例えばマイコプラズマに感染・発症すると、なぜ泌乳が止まるのかも解っていません。それが解れば感染や発症を防ぐ方法が見つかるかもしれない。最終的には予防薬・治療薬の開発につなげていきたいと思っています」
 世界中のマイコプラズマ研究者が予防薬・治療薬の開発に向けてしのぎを削っているが、樋口教授は、
 「当研究室の使命は、研究成果を現場の利益につなげることです。マイコプラズマに関してもその姿勢は変わりません。世界中の研究者に先んじて、このラボで基盤技術を確立することは十分可能だと考えています」
 と語っている。
 獣医衛生学ユニットのゼミ生は4~6年生の17人と大学院博士課程の院生が2人。卒業生は獣医師免許を持ち、小動物・産業動物の獣医として最前線で働いているほか、公務員や民間企業の研究職に就いている。

(月刊ISM 2021年9・10月号掲載)